「…それは砂漠だ…か。」
誰もいない家の、傾いだ戸口に寄りかかり、西日を受けながら、俺はボソリと呟いてみた。
今にも倒壊しそうなあばら家の二階、ちゃぶ台を挟んで俺はネズミ男に詰め寄る。
「猫娘とは試験まで住込みで面倒見てもらう約束だったんだぜ?これでまた留年だ。」
妖怪関連の事件解決はボランティアだが、長年続けているうちに断りにくくなってしまった。
しかし、学業との両立はキツイ。その上、生活苦だ。ぼやぼやしているうちに留年してしまった。
苛立ちをアピールするように火も点けずに煙草を弄んで見せながら、ネズミ男を見上げて言った。
「何も地獄に送り返すことはないだろう。」
先程帰宅したばかりで腰も下ろさぬうちに詰問されて、奴は面白くないんだろう。
「俺ぁ、知らねーよ。始末屋に邪魔ンならねーようにしてくれって、任せただけだぜ。」
ソラッ惚けるネズミ男を視界から外して、マッチを擦る。ことさら鋭い音を立てて。
その音にネズミ男が身を固くする。
そ知らぬ様子で俺は煙草に火を点け、煙を吐き出す。長年の誼だ、もう少しだけ待ってやる。
「第一よぅ、アイツぁ地獄に自分チがあるんだぜ?宿無しの俺達と違ってよぉ。」
俺に背を向けドッカリと座り込みながら拗ねたように言う。
奴の言うとおり、地獄で彼女は妖怪・猫娘としての全てを取り戻す。
「…だから困るんだよ。」
ボソリと無表情に呟く。態とじゃない。余裕が無いだけだ。
「あ…」思い当たるネズミ男。そらみろ!
「…ゴメンネ。」小首を傾げて、気味が悪いほど素直に謝ってみせる。全く仕方ない男だ。
「もーすんなヨ。」悪戯した子供を叱るように言ってみるが、まだ目が怒ってるのが自分でも判る。
「こんなに遠かったんだなぁ…。」
久し振りの地獄への道すがら、ふと呟いた。
荒涼とした景色。
彼女の住処のある住所。
此処は地獄の一丁目一番地。
カランコロンと下駄を響かせ、僕は格子戸を潜り抜ける。
ここは苦手だ。彼女と初めて出会った頃に戻ってしまう気がする。
想いばかりが先走って、手も足も出なかった頃に。
土間を横切り、敷居を跨ぎ、障子を滑らせ、奥の間へ進む。
丁寧な設えの小さな家。
ゲゲゲの森にある仮住まいよりも、ここはひんやりしてる。
地獄を離れれば、彼女は此処の事は忘れる。
僕がそのようにした。
こちらに背を向けて彼女は座っている。
でも、振り向かない。
僕が来るのを知っていて、待っていながら、彼女は振り向かない。
声を掛けるのを躊躇う。彼女を、どのように呼んでいいのか判らない。
呼びかける必要は無いのだと思い直して、髪に絡んだ大仰なリボンをスルリと解いた。
彼女は、少し、驚いたかもしれない。肩が大きく一度揺れた。
「もう、いらないの?」
「ここでは、ね。」
遠い昔、誰にも内緒で僕が贈った。
人間界に来ても、人間の娘だった頃の記憶が戻らぬように呪いをかけた。
辛く寂しく恥かしく惨めな記憶が彼女から笑みを奪っていた。
(どんな風に笑うんだろう?)と、思ったんだ。単純に。切実に。
それで、はじめから猫の妖怪に生まれたと思わせるように呪縛を贈った。
動機が単純なら、仕掛けも単純だ。
チャンチャンコの霊毛と自分の髪を一筋リボンに織り込んで念を掛けた。
深い森の中で、あるいは細い路地のそこかしこで、無邪気で気ままな猫娘の暮らしを送るように。
日向で幸せそうに眠りこける柔らかな肢体を思い描いて。
そんなまやかしも、地獄に来れば通じない。
彼女の記憶は甦る。
地獄暮しの妖怪になった経緯も、人間の頃の思い出も、多分、その前の祖先の因果も。
すべてを思い出し、すべてを見通し、妖齢に相応しく振舞う彼女に問う。
「どうする?まだ、ここに居る?」
ここが彼女にとって安住の地かもしれないのに、僕は彼女の髪に触れながら問いを重ねる。
「一緒に来る?」
地獄に戻って取り戻された彼女の長い髪を一房手に取り、放した。
流れる黒い髪の向こうでは、端正な白い顔が寂しげな表情を刻んでいるはずだ。此方からは全く見えないけど。
「鬼太郎さんは、どうして欲しいの?」
彼女は訊き返した。
これは謎かけだ。
僕はまだ言葉を重ねなきゃならない。相応しい言葉を。
「…ネコちゃんの自由だよ。」
僕は答える。
「自由?変な事言うのね。」
…しくじった…。
「自由」なんて幻想だ。人間界でも、地獄でも、僕等は理に雁字搦めだ。永劫に続く輪の中だ。
どちらの檻が良いかと訊いてるのだ、僕は。
畳の目を数える僕の肩に彼女の声が降りかかる。
「でも…そうね。」
彼女は振り向いた。やっと。
「リボンは、もうイヤ。」
寂しげに、それでも微笑む。それで、僕も、やっと笑える。
「髪、長いのも似合うよ。」
久し振りに見る寝子ちゃんの顔。
ふと気付く。
いつも惹かれる人間の娘は、皆それぞれ、彼女の面影だった。
俺は手を伸ばす。
彼女の白い顎に。
昔ほど、寸足らずではなくなった自分にホッとしながら、しかし確かめるようにゆっくりと。
格子戸の内、この檻の中、青褪めた死人の肌が許される気がした。
あの頃につぶやいた台詞が脳裏に甦る。
「君亡き世界…それは砂漠だ。」