「スケベ。」
と俺に言った後、くるりと踵を返しエントランスに向ってロビーを真っ直ぐ横切ってゆく。
勿論此処で追いかけなければどうしようもない。
「なんでもないですよ。離婚したんですから。話したでしょう?」
自分でも何故こんな言い訳をしてるのか判らない。
しかし見透かされてるのは判ってる。罰が悪い。なんでお嬢さんは此処にいるんだ?
「彼女、セイって呼んでたわね。」
「此方では誰でもそう呼びます。」
「滞在中は私もセイって呼ぼうかしら?」
「お嬢さんカンケー無いじゃないですか。大体なんでボンに…」
「ベルリンで会議があったのよ。『情熱はいずれ醒める』ってあなたから聞いたけど?」
過日、彼女の告白を諭し説き伏せた時の俺の台詞だ。
「見事に醒めてましたよ。」
「傷ついた?」
「そんなことで傷つきません。」
「そう?私は傷ついたわよ。」
「は?」
「特にカンケー無いって処。」
俺は驚いて立ち止まった。彼女の口から弱音が出たのを初めて聞いた。
ホテルのロビーで後ろを向いてからこっち、全く振り向かない。全く顔を見せない。
俺は再び彼女を追いかけた。
ズンズン前に向って歩いてゆく彼女のつむじを見ながら俺は切り出した。
「お嬢さん、思い過ごしです。」
「焼け棒杭に火がついてるじゃない?」
あまりの言葉に俺は再び足を止めてしまった。そんな下世話な言葉をどこで憶えたんだか、全く。
「や、だから、それは…」
空を仰いで言葉を捜す、が、結局、他に思いつかなかった。
「……セイと呼んでください。」
敗北宣言のような気分だ。かくしてお嬢は振り返る。
「呼ぶだけですよ。」
俺は念を押した。
「充分よ?」
お嬢の笑顔は意味深長だ。
魔物が自分よりも上位霊位者に本名を委ねれば、名指しで下された命に逆らえない。
もう、俺が言うことはたった一つしかなくなってしまった。
「どうか『契約』をお忘れなきよう…」