わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人
赤道直下 マーシャル群島 ヤシの木陰で テクテク踊る
踊れ踊れ どぶろくのんで 明日は嬉しい 首の祭り
踊れ踊れ 踊らぬものに 誰がお嫁に 行くものか
昨日浜で見た 酋長の娘 今日はバナナの 木陰で眠る
旧い歌で恐縮です(笑)でもコレって、まんまメリーさんだよねー。
本日は『その後のゲゲゲの鬼太郎』として文庫化された週刊実話版(ゲタ吉準主役の奴ネ。)でない方の、メリーさん出演の単発『その後のゲゲゲの鬼太郎』について。以前の記事の続き。
で、当時の水木センセの疲弊振りを感じるのはもちろんなんだが、同時に、描かれた当時(1969年)の水木先生を含めた一般的な男性側のジェンダー感覚が伺えて興味深い。東南アジアにイイヒトが出来てついでに子供も出来て……なんてのはちょっと前の日本じゃ珍しくないハナシだった。
社会格差と性。このハナシには、そういう側面もある。
週刊実話版『その後のゲゲゲの鬼太郎』にも通じるテーマ。
水木作品の深い着眼点は単なるファンタジー、単なる怪奇モノに終わらない。鋭い風刺が飄々と顕されている。それが時代を越えた魅力になっているのではないかと感じる。
さて、短編『その後~』発表が1969年で、ニューブリテン島再訪が1970年。それ以降、メリーさんは鬼太郎シリーズのなかで急速に『記号美少女』となっていく。
90年代に描かれた鬼太郎作品にメリーさんが原型となってるように思える南の島の少女が登場する。明らかに描かれ方が、例の『都合上出した、特に思い入れのない美少女像』なのだ。
この頃にはトペトロさんも亡くなり、近代化の波を受け変わりゆくニューブリテン島は、水木センセにとって南国憧憬の対象ではなくなってしまったのかもしれない。或いはメリーの住む島は、ブリガドゥーンのように何処かへ去ってしまったのかもしれない。
と、すると田中ゲタ吉(実話版鬼太郎)は理想郷から取り残されてしまった失楽園の物語とも言える。
それにしては、なんとも飄々と、とぼけた、逞しくもふてぶてしい失楽園譚だ。田中ゲタ吉の周囲では人間や妖怪達のみならず、天上も地獄も(果ては宇宙人や未来人までもが)軽々と行き交う。
田中ゲタ吉が大変にエロティックなのは、シモネタが多いからってだけでは無いように感じる。彼は、『ゲゲゲの鬼太郎』よりも多くのものを失い、それを受け入れて尚、暢気に在り続けるからかな?と思う。
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