2011-06-22

「あんたの家、どうする?」
朝食の席で長女の蛙子姉が俺に言った。
「は?ボンの?売ったよ?」
俺は、前妻と買ったドイツのマンションの件かと思った。
「違う違う。父さんが奥さんに買った家。確かアンタの名義になってたはずだけど。聞いてないの?」
「えー?アレ借家じゃなかったんだ?」
五歳で母が出奔して以来、俺はあの家に行ってない。旧軽井沢という立地も手伝っていた。外国人向けの小さいながらも瀟洒な建物だった。吹き抜けのサロンがあり、そこは二階の廊下から見下ろせる造りになっている。
夜、子供部屋を抜け出して、そっと母の様子を見ることがしばしばあった。そこである晩、俺は見てしまった。母と結婚相手の仲睦まじい姿を。
(厭な事思い出したな。)
程なく母はドイツに帰り、俺は父の家に住む事になった。
(まぁ、結婚しなかった親父も悪いよなー。)
「俺、いらない。売るよ。」
何だか余計な荷物を背負わされた気分になった俺はつい即答してしまった。怪訝な顔で蛙子姉は言う。
「見もしないで決めるの?」
「別に見たくねーし」
20歳近く離れている蛙子姉に、俺は未だに甘えてしまう。
「子供みたいなことを……まぁ、アンタの好きにすりゃいいけどさ。」
不動産会社の電話番号を書き付けて俺によこした。
「アンタの持ち物なんだから自分でやんなさい。これ管理会社だから。」

管理会社に連絡を取ったら、早速昼休みに家を見ることになった。
「ちょっと旧軽まで出かけてきます。」
俺のボスは好奇心旺盛な17歳のお嬢さんだ。
「なにしに?」
「家を売るんで確認に。」
しかも不動産に目が無い。
「私も見たいわ。」
そう言うと思った。
「廃屋ですよ?」
普段は好奇心旺盛なお嬢さんに手を焼くが、今日ばかりは有り難い。彼女が同伴すれば、俺は感傷を無視できる。生真面目な家庭教師、堅実な執事、タフなボディガード、冷静な後見人の顔で居られるはずだ。

そのはずだった。

が、なんと、俺はサロンの真ん中で失神してしまったのだ。

普通に家の中に入った。何も感じなかった。
多少の懐かしさはあったが、五歳で引き上げた家の記憶は朧気で、他人の家のようだった。中軽井沢の実家の方が懐かしさを感じるくらいだった。
長くも無い廊下を抜けてサロンに入り、吹き抜けを見上げた時に眩暈に襲われ、そのまま倒れてしまったのだ。

気付いたときに最初に目に入ったのは、倒れる前と同じく、吹き抜けの天井だった。
しかし頭の下には柔らかな感触があり、冷たく湿ったものが当てられていた。
それがお嬢さんの掌と濡れたハンカチだと気付き、起きようとしたら諌められた。
俺は髪を解かれ、眼鏡を外され、倒れた場所にそのまま横たわっていた。

少し、思い出話をしてしまった。
お嬢さんは尋問が巧い。追求されてるわけでもないのに、ついつい口を割ってしまう。
額に手を置かれ髪を撫でられたら、キスをしたいと思ってしまったので、慌てて目を堅く閉じ、一息に起き上がって目を醒ました。

後日、家の買い手が決まった。
思ったよりもいい値がついたので、書類の作成や手続きは管理会社に任せた。
買い手の名義は、とある会社になっていた。
お嬢さんは何も言わないけど、その会社の持ち主が誰か、俺は判った。
家の場所を通り掛かりに覗いたら、新しい別荘が建つ準備が始まっていた。
あのサロンも、母の姿も、俺の髪を撫でたお嬢さんも、今は俺の記憶の中だけだ。
もう再現される事はない。
その事に俺は安堵する。
誰も触れることが無い場所に仕舞った気分になる。

もう、あらゆる感傷に捕らわれる心配がなくなったと思える。

後日談

0 件のコメント:

コメントを投稿